「英語の早期教育」は本当に必要なのか…灘中の国語教師が指摘する日本の「グローバル人材育成」の大問題

「英語の早期教育」は本当に必要なのか…灘中の国語教師が指摘する日本の「グローバル人材育成」の大問題

「英語の早期教育」は本当に必要なのか…灘中の国語教師が指摘する日本の「グローバル人材育成」の大問題 | ニコニコニュース

英語の早期教育は必要なのか。灘中学校・高等学校で国語科教諭を務める井上志音さんは「国際バカロレアは公式的に3つの教授言語(英語・フランス語スペイン語)を設けているが、深く思考する際には母語も活用する。いきなりグローバル人材を目指すのではなく、ローカルな部分から広げていくように考えたほうがいいのではないか」という――。

※本稿は、井上志音著、加藤紀子聞き手『親に知ってもらいたい 国語の新常識』(時事通信社)の一部を再編集したものです。

■英語の早期教育への関心が高まっている

【加藤】今、日本にも教育熱心なご家庭の間でインターナショナルスクールへの関心が高まっていて、早くから子どもに英語を身につけさせようという流れがあります。ところが、英語は実は「キラーランゲージ」と呼ばれていて、ほかの言語を排除してしまう危険性を持ち合わせているという話を、第二言語習得を専門とされている早稲田大学の原田哲男教授からうかがったことがあります(『海外の大学に進学した人たちはどう英語を学んだのか』ポプラ新書)。

「人種の坩堝(るつぼ)」と言われるアメリカは移民が多く、彼らが英語にシフトしていってしまうため、「言語の墓場」と言われているそうです。だから母語を大事にしないと、結果的にモノリンガル(単一の言語のみを話す人)の思考に変わってしまうと原田教授はおっしゃっていました。日本語と日本文化を十分理解したバイリンガルの育成が大切なのだと。

母語の重要性について、IBではどのように考えられているのでしょうか。

■国際バカロレアでも思考の前提には「母語」がある

【井上】IB(国際バカロレア)では教授言語(学校教育の教授で使用される言語)に強いこだわりを持っていますが、一方でIB教員は、生徒が深く思考する際の母語の重要性にも目を向けなければなりません。また、IBは「全教科の教員が言語の教員でもある」というスタンスです。人間は言葉で考えますから。

また、IBには育てるべき10の学習者像があり、そこから展開する形で各教科があるというように、もともと教科は、大きな教育目標を実現するための手段という考え方があります(本書の38ページ参照)。

一方、日本では英語は英語、国語は国語と教科が分かれていますので、英語と国語の関係性を生徒も自覚しにくい面があります。国語での学びを英語に活かしたり、英語での学びを国語に活かしたりすることがそもそもあり得ないというか。日本語と英語を比較できるような授業があればいいのですが、すべての学校でできるかというと、現状では難しいです。

【加藤】たとえばフランスではフランス語と英語を比較しながら学んでいますよね。

【井上】そうですね。私も英文学とそれを翻訳した日本文学とを同時に比較しながら教える授業を試みています。

このあたりはおそらく教科縦割りの弊害なんですね。日本では「国語のことは国語の授業でやってね」ということになっていますが、その考え方を変えなければいけません。灘校の場合は担任団持ち上がり制なので横のつながりが強く、教科横断的な試みも行いやすい面があります。

【加藤】その点で私立の学校は柔軟ですよね。中高一貫校であれば高校受験がないので、教科横断的な授業ができたり、いろいろな試みがしやすい環境かもしれません。

■「英語力を身につけさせなければ」という危機感

【井上】先ほど「インターナショナルスクールへの関心が高まっている」というお話がありましたが、加藤さんはその影響で母語がないがしろにされていると感じているのでしょうか。

【加藤】母語がないがしろに、というわけではありませんが、「英語力を身につけさせなければ」という危機感の高まりがどんどん低年齢化し、今はインターナショナルプリスクールが人気のようです。

そもそも母国語を持って育つとはどういうことなのだろうと最近すごく考えるのですが、たとえばアメリカで教育を受けて、完全にアメリカ人として育てられた日本人の中に、アイデンティティ・クライシスに陥ったり、日本に帰国しても日本語ができなくて馴染めず、悩んだりしてしまう人もいるようです。

■背景にあるのは日本の教育事情への不安や不満

【井上】たとえば教授言語が英語のIB校で、批判的思考を培う「TOK(Theory of Knowledge/知の理論)」というコアを学んでいくときに、授業は英語で行ったとしても、生徒の母語が日本語の場合はいったん日本語で考えてから英語にするほうがいい、ということがあります。初めから「日本語なんてどうでもいいから英語を身につけよう」という子は私の周りにはいませんね。日本語は家庭で話しているのだから、それ以上はいらないと考えている人たちが一定数いるのでしょうか。

【加藤】日本語が必要かどうかという問題以前に、昔と変わらないスタイルの英語教育や受験の過熱といった日本の教育事情に不安や不満を感じてそうした選択をするケースが少なくない気がします。

【井上】灘校でも「英語なんか勉強して意味があるんですか?」と問われることがあります。つまり、自動翻訳技術が発達したことで、受験英語に意味があるのか、という問いです。日本語と実用的な英語と受験英語があるとすれば、実用的な英語は話せたほうがいいけれども、いわゆるペーパーテスト用の受験英語は本当に意味があるのか? と。

【加藤】それはそうですよね。「この英文を和訳しなさい」というだけならChatGPTで用が足りてしまいますから。

■自分が育ったローカルがあってこそのグローバル

【井上】「グローバル社会で生き抜く力」などとよく言われますが、私はそもそも「グローバル人材にならなきゃいけない」というのもよくわかりません。背景には経済界からの要請があるのかもしれませんが、子どもの実感が伴わないままにグローバル人材がどうこう言っても仕方がないですから。

学校にいるとよく思うのですが、子どもが属しているコミュニティって、まず家庭があって、次にクラスがあって、学校があります。そして地域があって市と県があって、日本があって……と広がっていくわけですが、いきなり海外と比較すると戸惑いが生じてしまうのではないでしょうか。「自分」と「世界」の間が抜けているのではないかと。

それよりは、身の回りの生活を大切にしながら、ローカルな部分から広げていくように考えるほうがいいのではないかと思います。

【加藤】地続きで考える、ということですよね。海外で活躍している日本人の方々と話をしていると、実はローカルなところにまだたくさんの日本らしさが眠っているのに、なぜそこを見ようとしないままレッドオーシャンで戦おうとするのか、とよく言われます。「これからはプログラミングだ!」「英語力だ!」と血眼になったところで、すでにインドや中国のような国にはそう簡単に勝てるわけがないのに、と。

それよりも、日本には海外の人たちが羨むようなものが、哲学的な概念といったものも含めてまだたくさんあります。ですから、井上先生がおっしゃるように、もっとローカルなところに眠っているものに気づかせてあげるというようなことであれば、地元の先生たちも教えられるのではないでしょうか。プログラミングをやったことがない先生がいきなりプログラミングを教えるのは難しいかもしれませんが、その地域で続いてきたお祭りのことだったら、先生も教えやすいと思います。

そういう身近なところからこそ、言葉やコミュニケーション、リサーチなどのスキルが伸びていくのですよね。

■自文化理解があってこそのアイデンティティ

【井上】おっしゃるとおりです。個人の体験や身近な知識、文化を軽視してしまう流れって何なのでしょうね。共有できる知識にしか価値がないということなのでしょうか。共有できない個人的な知識だからこそ、他者との対話が生まれると思うのですが。

【加藤】今、日本の郊外に行くと、スーパー、量販店、ファミレスなどどこも似たような景色が広がっていますよね。でも、海外の人たちが価値を見いだす日本の風景はそういうものではありません。

【井上】「グローバル社会で生き抜く力」がどういう力なのかと考えると、確かに語学力や異文化への理解力もありますけれども、やはり自分の文化が軸です。自文化理解があってこそのアイデンティティですよね。

【加藤】そうですね。自分が何者なのか、どこから来たのか、どんなところで育ったのか、というように、まず自分のストーリーを語れなければなりません。

グローバルって本来そういうことですよね。自分が育ったローカルがあってこそのグローバル人材なのであって、そこを履き違えてはいけないのではないかと感じます。

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井上 志音いのうえしおん
灘中学校・灘高等学校 国語科教諭
1979年奈良市生まれ。神戸大学大学院国際協力研究科博士後期課程 単位取得退学。文学修士(学校教育学)。2013年より現職。灘中高での本務のほか、学外においても「国語科教育論(大阪大学神戸大学)」「IB教育の理論と実践(立命館大学大学院)」を担当している。専門は国際バカロレア(IB)教育をふまえた教科教育学。高校国語科教科書(東京書籍)の編集委員のほか、「NHK高校講座 現代の国語」(Eテレ)では監修・講師も兼任している。著書に『メディアリテラシー 吟味思考を育む』(分担執筆、時事通信社)、『国際バカロレア教育に学ぶ授業改善』(共編著、北大路書房)、『これからの国語科教育はどうあるべきか』(分担執筆、東洋館出版社)など。

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加藤 紀子(かとう・のりこ)
教育情報サイト「リセマム」編集長
1973年京都市生まれ。1996年東京大学経済学部卒業。国際電信電話(現KDDI)に入社。その後、渡米。帰国後はフリーランスライターとして中学受験、子どものメンタル、英語教育、海外大学進学、国際バカロレア等、教育分野を中心に「プレジデントFamily」「ReseMom」「NewsPicks」「ダイヤモンド・オンライン」「『未来の教室』通信」(経済産業省)などさまざまなメディアで取材、執筆。初の自著『子育てベスト100』(ダイヤモンド社)は17万部のベストセラーとなり、韓国、中国をはじめ6カ国・地域で翻訳されている。その他著書に『ちょっと気になる子育ての困りごと解決ブック!』(大和書房)、『海外の大学に進学した人たちはどう英語を学んだのか』(ポプラ新書)がある。

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※写真はイメージです – 写真=iStock.com/yamasan

(出典 news.nicovideo.jp)

ゲスト

ゲスト

多くの外国人は英語が母国語じゃなくても英語が話せますね。義務教育で英会話が必要なレベルではないかと。

加藤緑茶

加藤緑茶

英語が話せる=グローバル人材って勘違いしている若い親は多そう

なかじま

なかじま

英語の早期教育は日本人ルー語話者化計画なんじゃねーかなと個人的には思っている。

一般通過ゲスト

一般通過ゲスト

母語もろくに使えず母国のこともよく知らない人間が世界で満足に活躍できるかは疑問だよな。君の母国ではどうなの?って聞かれたとき答えられなきゃ恥ずかしいし

めほ

めほ

国際バカロレアとやらが何なのか解説するところからでは?

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