【社会】なぜ日本の城下町はこんなにも殺風景なのか…城を「過去の遺物」としか見なかった明治政府の恐るべき無教養
【社会】なぜ日本の城下町はこんなにも殺風景なのか…城を「過去の遺物」としか見なかった明治政府の恐るべき無教養
■なぜ日本の城は無配慮に破壊されたのか
仕事柄、ヨーロッパに行くことが多いが、帰国後に日本の城を訪れると、いつも残念な気持ちになる。ヨーロッパの旧市街や城は保存状態がいい場合が多いのにくらべ、日本の城がいかに破壊されてしまっているか、あらためて気づかされるからである。
たとえば、世界遺産の姫路城(兵庫県姫路市)にしても、内郭を取り巻いていた中堀は南側が埋め立てられ、外堀も南部は埋められたうえ、一部残る場所も土塁は崩されている。建造物は、内郭を除けばまったく残っておらず、内郭にしても、たとえば広大な三の丸に建ち並んでいた御殿群は、明治初期にすべて取り壊されている。
姫路城でこうなのだから、残りは酷いものである。天守が現存する城でも、犬山城(愛知県犬山市)や丸岡城(福井県坂井市)、宇和島城(愛媛県宇和島市)は天守以外の建造物は残っていないばかりか、堀はみな埋められている。
戦前まで天守が残っていた城も、たとえば岡山城(岡山県岡山市)など、本丸内堀こそおおむね残るが、それを幾重にも取り巻いていた堀はすべて埋め立てられ、市街化された。大垣城(岐阜県大垣市)も水郷と呼ばれた大垣を象徴して、4重の堀に取り囲まれ、本丸と二の丸は広大な内堀に浮かんでいたが、いまはすべてが埋められてしまった。
例外をあげつらっているのではない。日本の城のいずれも、程度の差こそあれ、このように無配慮に破壊されている。
■地上に痕跡すら残っていない城も
なかでも酷いのは、長岡藩の拠点だった長岡城(新潟県長岡市)である。本丸はJR長岡駅となり、ほかはすべてが市街化して、なにひとつ遺構は残っていない。上越新幹線の長岡駅前に降り立ったとき、ここが城跡だと感じる人はいないだろう。「長岡城本丸跡」と彫られた石碑が駅前に立つが、騙されている気分にすらなる。
尼崎城(兵庫県尼崎市)も同様だ。すでに武家諸法度で新規築城が禁じられた時期に、幕府が西国の大名に目配せする目的で築かれた城で、正方形に近い本丸の四隅には、四重の天守のほか3棟の三重櫓が建ち、その周囲は約300メートル四方に堀が三重にめぐらされた壮麗な城だった。ところが、堀はすべて埋め立てられて城内は市街化し、地上に城の痕跡を見つけることはできない。
平成30年(2018)、天守が鉄筋コンクリート造で再建されたが、本丸の跡地は小学校の敷地で整備できず、300メートルほど北西に建てられた。ちなみに、この天守は見栄えを重視して、東西を反転させて再建されたので、「史実に反する」という批判が少なからず存在する。
むろん、地震災害や太平洋戦争の空襲などで、不幸にも失われた城の遺構は少なくない。しかし、これほどまでに全国の城郭が破壊されている主たる原因は、明治政府の政策にあった。
■日本の城に決定的ダメージを与えた法令
明治維新を迎えた段階で、日本には193の城が存在していた。ほかにも、城持ちでない3万国以下の大名の藩庁が置かれた陣屋や、城に準じる要害を加えると、事実上の城の数は300を超えていた。天守にしても、その時点で70数棟は残っていた。
しかし、明治4年(1871)の廃藩置県で、城の母体である藩という組織がなくなり、旧藩主は華族となって東京への移住を義務づけられた。主を失った城の維持が困難になったところで、明治6年(1873)1月14日、明治政府は日本の城に決定的なダメージを与えた「廃城令」を出したのである。
各地の城は維新後も、皇居(当初は東京城と呼ばれた)となった江戸城と、兵部省の管轄下に置かれた大坂城を除くと、各藩がそのまま管轄していた。それが廃藩置県後は、兵部省陸軍部(改組後は陸軍省)の管轄へと変更になったが、事実上300もある城を陸軍省は管轄しきれない。このため、軍隊の基地として利用できる城と、不要な城とに分けることにしたのだ。
そこで、陸軍省と大蔵省の役人が全国に出張して各地の城を細かく調査。そのうえで、陸軍の軍用財産として残す「存城」と、普通財産として大蔵省に処分させる「廃城」に分けたのである。
■軍用財産として使えなければ処分
この時点で「存城」とされたのは42の城と1つの陣屋にすぎず、残る二百数十の城と陣屋や要害はすべて「廃城」とされた。
もっとも、「廃城」とされながら、犬山城や松山城(愛媛県松山市)、高知城(高知県高知市)のように天守が残された城もある。一方、会津若松城(福島県会津若松城)は「存城」とされながら、会津藩が戊辰戦争で新政府軍に抵抗したため、見せしめとして建物がみな取り壊されてしまった。
これを解釈すれば、「存城」といっても、保存すべき城という意味ではなかった、ということになる。
弁護士で城郭研究家の森山英一氏は、「存城と廃城は城郭の所管官庁を分ける法令上の用語」で、その背景には「城郭を財産とみるフランス民法の影響があった」と書く[森山英一, 平成28年]。
もう少し引用すると、「存城は軍事上必要と認めて国家が保有するものであり、廃城は軍事上不要とされたもの」で、「存城は、従来通り陸軍省の管理に置くという意味であり、廃城は、陸軍省の管理を廃し大蔵省の管理に移すもので、不要と認められれば売却処分されるが、直ちに破壊されるものではない」という。
つまり、「存城」と「廃城」とは国有財産の管理区分で、「城郭の建物その他の施設の維持保存とは無関係」の概念にすぎないということだ。明治政府は「フランス民法」の影響のもと、城を軍用財産として使えるかどうかという視点だけで評価し、使えなければ処分するという性急な判断を下したのだ。
■新政府=文化的素養に欠ける下級武士
残念なのは、フランスの影響を受けながら、歴史的環境を積極的に保護するというフランスの精神からは、なんら影響を受けていないことである。
フランスでは19世紀初頭には、フランス革命の被害を受けた建造物や美術品の保護を目的に、中世建築博物館が作られ、中世の建築や美術への保護策が講じられていた。以来、今日まで、フランスらしい建築の保護を核にした歴史的景観の醸成に力が入れられてきた。
一方、明治政府は、城をたんなる封建時代の残滓、自分たちが倒した幕藩体制の遺物とみなし、その意識のもとで城の処分を進めていったのである。
わかりやすいのが、長州藩の本拠地だった萩城(山口県萩市)に対する姿勢で、新政府が率先して天守を解体したとされる。日本固有の文化や歴史的景観を守るという発想が明治政府にまったくなかったことは、不幸であった。欧米を真似しながら、アイデンティティの維持という、彼らが大切にする姿勢に気づくことはできなかった。
維持費用を考えると、300を超える数の城をすべて守るのは非現実的だっただろう。しかし、城を「存城」と「廃城」に分けた際に、それらを文化財としてとらえる視点がなかったのは悔やまれる。新政府を主導した人たち、すなわち文化的素養に欠ける下級武士たちの限界を感じざるをえない。
■維新の過ちを忘れてはいけない
結果として、「廃城」となった城の建造物は次々と払い下げられ、それを受けて取り壊された。前述の萩城は「廃城」と決まって間もなく払い下げが命じられ、明治7年(1874)に五重の天守のほか櫓14棟、城門4棟、武器庫3棟がすべて解体され、計1348円3銭で払い下げられた。明治初年の1000円は、いまの1000万円前後だと思って、さほど外れてはいない。
高石垣が3段、4段と見事に重ねられた津山城(岡山県津山市)は、五重の天守のほか60もの櫓が建ち並ぶ、日本を代表する平山城だった。しかし、すべての建造物が入札にかけられ、保存運動が起こる間もなく、明治7年(1874)5月に1121円で払い下げられ、翌年3月までにすべてが解体されてしまった。
徳川家康の命令で、諸大名による御手伝普請で築かれたはじめての城、膳所城(滋賀県大津市)も、家康の出生地として知られる岡崎城(愛知県岡崎市)も、ほぼ同様の経緯で天守以下の建造物がすべて取り壊された。
片や「存城」も、あくまでも軍用財産にすぎないから、たとえば、名古屋城の二の丸と三の丸の建造物が、練兵場や兵舎などを建設するためにすべて取り壊されたように、次々と手が加えられていった。
翻って近年、できるだけ元の姿に戻すという努力が行われている城は増えている。しかし、いかんせん明治初年の破壊の規模が大きすぎた。日本人がアイデンティティーとしての文化に無頓着だったツケは、いま、日本中の景観となって表れている。私はそれをアイデンティティーに敏感な欧米人に見られることが恥ずかしい。
むろん、かろうじて残された歴史的環境を維持し、整備してほしいと思うが、そのためにも、ここに記した維新の過ちを忘れてはなるまい。
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歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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