【賛否】「空気を読む」は素敵な言葉なのに、差異を表すようになったのはなぜ
【賛否】「空気を読む」は素敵な言葉なのに、差異を表すようになったのはなぜ
その田中泯さんが10年にわたって綴ってきたエッセイ『ミニシミテ』では、自身や世界のことごとへ、歯に衣着せず喜怒哀楽が語られます。今回は、このごろ「空気を読む」という言葉が息苦しさの代名詞のようになっているのはなぜか、人の世の最大級の財産だと思っていることとは何か、を語ります。
●「気」になる
遠くからこちらに向かって歩いてくる人がいる。縁もゆかりも無い人なのに何故か気になってしまう。
「気・き」一文字・一音に、なぜ人間はとてつもなく大きな意味を担わせてしまったのだろうか。「生命・意識・心などの状態や働き」(大辞泉)とある、これで僕達の日頃の精神活動の殆どが気で占められてしまう。
いやいや精神活動だけではない、空気・天気・気合・元気……見えないけれど確かに在る現象の多くに関係している。存在しなければ人間の、否全生命の生存が保障されない空気にまで気が使われる。
遠くから歩いてくる人の様子が気になろうがなるまいが、僕の一生には関係ないと言うこともできる。しかし、気になってしまったのだ。
他者に分かる言葉では説明しきれない何かが僕の内でうごめいてしまったのだ。記憶? 経験? 因縁? 運命? どれも決定的ではない、しかし単なる偶然と思って僕自身を客観視するような醒めた人では僕はない。
さて「歩いてくる人」は間違いなく、人に見られていることを気付いてはいない(ここでも気だ)。つまり意識はカラダの内側にある、どういう訳なのか分からないが雰囲気があるのだ。
「あなたがグレーに見える。美しい!」などと語りかけたら、きっと彼・彼女は戸惑うだろうし怒るかもしれない、でも、もし「イエス!」と答えてくれたら、僕はスキップしてその人の横を通り過ぎるだろう。
●眼には見えないけれど見えているもの
眼には見えないけど、見えている、見えてくると思える物事が世の中には存在する。人の世の最大級の財産だと思っている、でなければ日本の話芸も存在しなかったろう、もっと言ってしまえば「詩も歌も」生まれなかったに違いない。視覚を疎んじるのではない、人の眼は心があるから維持できているのだ、と言いたい気持ちが僕にはある。ハイビジョンのような眼で僕達は物事を見てはいない、もっと見えているからこその塩梅を楽しんでいるのだ人間は、と開き直りたい気分だ。
続きは週刊現代 2024/03/18
https://gendai.media/articles/-/125325